さよなら栗川先生

富岡製糸工場世界遺産登録のニュースで僕が小学校五年の時に野麦峠をテーマにした劇をやったことを思い出した。

その頃はあゝ野麦峠というドラマが大ヒットしていて大竹しのぶが注目されていた。
担任だった栗川先生はいわゆる同和教育に熱心な方で道徳の時間はいつも部落差別の勉強ばかりだった。今考えると日教組なんだがそれでも当時僕らは頼もしく思えて先生の言うことは間違いないと思っていた。

その年に各教室1台ずつテレビが導入された。校内放送はもちろん同和をテーマにしたテレビがあるとその時間に必ずクラス全員で見せられていたのだった。
そして学習発表会の時期、僕らのクラスは野麦峠をテーマにした劇をやることに決まった。富国強兵の陰で虐げられた人々を僕らが演じ、それを体育館で魅せるのではなくビデオに撮り校内放送で流すのだ。80年代初頭なのでまだビデオカメラも高かったのではないだろうか。栗川先生の私用だと思うのだが。

僕が演じたのは工場に身売りされる女工の、前日の夜に酒を飲みながら別れを惜しむ、感情込めて泣き叫ぶ父親の役だった。
迫真の演技だと言われ満足だった。この時がきっかけで僕は何かを表現する喜びを知ったのだと思う。友だちからも笑いが巻き起こった。

数年後、二十歳になる前かなった後だったか小学校の同窓会があった。その時はまだ何人かと交流があったのでそんなに懐かしいとは思わなかった。
久しぶりにあの野麦峠のビデオを見た。
僕の迫真の演技で笑いが再び起こると思ったが全く受けなかった。
逆に棒読みだった他のやつの演技にみんな爆笑していた。時代は多様化していて不条理さやいい加減さが受けるようにもなっていたことを僕はその時に気づいた。しらけ世代だった。

それから湾岸戦争が起きいろんな価値観が変化した。栗川先生の思想に僕はかなり感化されていたがいろいろあり過ぎて今ではその対極にあることだろう。
また時代が過ぎて栗川先生の名前をインターネットで検索した。僕が通っていた小学校とはそれほど離れていない小学校の校長先生に就任しそれから退任されていた。ご存命ならもう定年退職でいまだ箕面に住んでおられるのでしょうか。
栗川先生僕はオトナになりました。おそらくすれ違っても僕だとわからないでしょうね。
それでも野麦峠のことを思い出されたなら、あの大げさな父親役を演じた僕をどうか記憶の片隅にいさせてほしいです。

さよなら、栗川先生。