狼煙

先日は自分が主催する廃藩置県フェスティバル東京篇(東京篇はT.T.端子さんとの共同企画)と友人が店長をやっている横浜の試聴室その2でライブをさせてもらいました。

東京篇は六組の予定でしたが急遽おはるの時間をオープニングアクトに。実際はオープニングアクトというより一番目で既にタイムテーブルが決まっていたので前後の時間に付けたしました。個人的に東京での演奏が見たかったという僕のわがままでもありました。おはるの時間の二人、ありがとう。


ドラムのバチカがその日北海道に出張だったので不参加。なので島田くんと二人で僕はiPadでのメロトロンのみ。何曲かみのようへいが参加。


三浦カヨさんはいつものように着物と三味線、意外にも七針での演奏は初めてということで自分は江戸の流行歌とか全く知らないのですがそれでもいつも楽しめる。


トンチャイKウィーラセクタンはタイ版のチャゲアスを目指したとかで(相方は岩手に引っ越ししたそうで)バカバカしい歌詞を綺麗な曲とバカテクのギターで聴かせる本格派でこれは絶対大阪に呼ばなければとみんな思ったはず。


あみのめは以前から名前を見かけていたエレクトリックギター二本による夫婦アシッドフォークデュオでアシッドといってもポジティブな歌詞と冷たい感触のギターだけど暖かさが感じるサウンドで冬の朝の太陽みたいでした。


ドラムがあるのはいかんせん花おこしだけで今までで見たライブでは一番でした。音抜けが良かった。


最後はオオトリのコハクで端子さんとのデュオ。

2009年だったかまだジェニーオンザプラネットやっていた藤本さんに一度アコースティック編成でやってみない?とメールして翌日タワレコにいたら、"やらせてください。名前はジェニーオンザプラネットではなくコハクにします"と返事がきたのがまるで昨日のよう。それを思い出しながら聴いていた。

私を金星に連れてって

8/14ははにゃうにゃさんの10周年記念ライブで久々にベアーズに出た。
10年前、はにゃうにゃさんの初めてのソロ出演で僕は対バンだった。その縁で今回僕は呼ばれたのだ。僕もその時のことははっきり覚えている。あの日はものすごい大雨だった。

見に来てくれた今はyasushi yoshidaという名前で活動している吉田くんが当時僕が一緒だったコと僕そしてギターを乗せてマンションまで送ってくれたのだ。ベアーズのあとに行った打ち上げがほんとうに盛り上がった。この時は当然ながらはにゃうにゃさんとは知り合いではなかったがまさか10年後にこんなライブに呼ばれるとは思わなかった。

そして10年後、ベアーズのステージ、はにゃうにゃさんの歌を僕は歌った。それから120円から130円に値上がった缶コーヒーの話をした。いつもはふざけたMCをする僕だったが、まじめな話をしたかった。

10年前にいた友達、愛した人、憎んだ人、いろいろいたが今はもうほとんど誰もいない。鬼籍に入ってしまった人も少なからず、いる。

それから10年経った今、全てを抱きしめたくなって仕方がない。

この日はにゃうにゃさんは"終わりが見てみたいの 何かホッとするから"と歌っていた。僕は終わりを見ることが出来るのだろうか。
そうだ、缶ジュースがこれから130円から140円、150円と値上がりするぐらいの長い時間を僕は生きてやるんだ。希望を友達に持てるなら、希望を友達にずっとしてやれ。してやるんだ。きっと。

星は巡り人は生まれ死ぬ

去年の今頃は職を失い母が癌で手術を受け病院と実家を往復する毎日だった。
周りの身内には大病するものが何人かいたが、どれも手遅れで手術する間もなく亡くなっていたので手術というのがどういう過程でおこなわれるのか初めて知った。

結果的には成功だったので肩の重みが一部消えた。少し安心する。

しかしそうはいっても人は必ず終わりの時が来る。それは誰でも、例外はないだろう。

家族を作るのに失敗した僕もいつか星のように消えてしまうだろう。僕だけではなく、あのコの両親も、そしてあのコ自身も。きっと変わることはない。
星は巡り人は生まれ死ぬ。

盲狼

18才、専門学校は夜間部。
一才年上の北村くんは僕をよくコンサートやライブに連れていってくれる。
彼はすでにいわゆる業界というものに出入りしていてその縁か招待券をもらっていてその同伴として僕を連れていった。

やっとギターソロみたいなことが出来るようになった頃、簡単なブルースコードで曲を作るようになった。
北村くんも黒のストラトキャスターを持っていて簡単なコードなら弾けた。僕も安物のレスポールで中津のガレージというスタジオで何回か練習した。
それから専門学校の文化祭に出演した。
一年生の時は一人で出演したが、翌年は北村くんと3曲演奏した。当時ブラインドウルフとステッペンウルフが好きだったのでユニット名はブラインドウルフにした。

正直受けたのかどうかわからない。
ほとんど昼間部が中心になって学校は回っていたので文化祭は知らないやつばかりだ。終わってすぐに東通りのよく通っていたそば屋で二人打ち上げをした。

友よ、僕は今も歌っている。君はあの頃ほんとうに大切な友だちだった。僕はいつの日か、近い将来君のために歌うよ。君のことを考えながら歌うことにするよ。君も僕も少し人生につまづいただけさ。
でもかならずつかんでみせよう、それを額に入れて眺めながら楽しかった夢を見る明日を。

そう、君も僕もほんの少しつまづいただけさ。好きなレコードをかけながらまた笑い合おう。

砂の丘

けさ、自分が働いている店に突然二十年前に付き合っていた人が現れた。
僕が立っているところから離れていたのでおそらくこちらには気づいてない(と思うが)。僕は自分の名札を隠し背中を向けるように仕事をした。

間違いなくその人だった。二十年前もこのあたりに住んでいてもう違う場所に行ったのだとばかり思っていた。
僕より年上で聡明でそれなりの風格が出ていたが若々しかった。2、3人でそのうちの1人はおそらく母親で(直接の面識はなかったが以前見たことがあった)女性ばかりだった。
その姿を見てそれほど驚かなかったのは数日前にその人の夢を見たからだろう。夢を見るまではすっかり忘れていた。

当時は誰にも知られないように会っていた。僕も誰にも知られないようにした。今なら時効なので言えるが彼女は結婚していたし僕も違う人と一緒に住んでいた。別れてしばらくして彼女に子供が出来たことを風の噂で知った。

ほんとに酷いことをしたと思う。一緒に逃げ出すことも一瞬、考えたこともあった。でも勇気はなかった。

きっと彼女は忘れているだろうな。僕も夢を見るまで忘れていたよ。
だからもうこのことは思い出さないようにしよう、このまま砂の中に埋れよう。

疾痛

学校からの帰り、友人の一人がしきりに腹が痛いと言ってきたことがあった。
もしかしたら胃潰瘍じゃない?と適当に答えた。その頃の僕はなぜか直感力に優れある事象について頭に思い浮かんだことを口に出すとほとんどが当たっていた。友だちはそんなん言うなよと不安がった。

それから一週間後、友だちは激しい腹痛に襲われ急遽病院に運ばれた。
友だちのお母さんによると、友だちは腹痛が治まらず正露丸を何錠も飲んだとのこと。それでも治らず弟に救急車を読んでもらい運ばれたのだった。

僕は翌々日に見舞いに行った。
もう麻酔は切れたのか喋れたのだがたどたどしい。
彼のお母さんが一枚の写真を見せてくれた。
それは全摘された胃袋の痛々しい姿だった。
厳密には胃潰瘍という病名ではなかったが似たようなもので友だちはもりたが言ったことが正しかった、病院に運ばれる前にその言葉がずっと頭に響いていたと僕に語った。その直後に気を失ったらしい。そんなん当たったからって全然うれしくないわ。

友だちは中学生生活の中で先生にも好かれておらずクラスメートとも距離を置き学校をよくさぼっていた。そして中卒になり電気工事の仕事についたがすぐに辞め好きなパソコンの仕事に就こうとゲームソフト会社に応募したら見事に合格した。二十歳ぐらいまで交流があった。

彼が関わったゲームソフト、wikiにあったので見たら名前が載っていた。しかしそれも20年以上も前。それ以外には何も、ない。

友だちが入院していた病院の前を僕は通勤途中に通る毎日。元気にしているのだろうか。

さよなら栗川先生

富岡製糸工場世界遺産登録のニュースで僕が小学校五年の時に野麦峠をテーマにした劇をやったことを思い出した。

その頃はあゝ野麦峠というドラマが大ヒットしていて大竹しのぶが注目されていた。
担任だった栗川先生はいわゆる同和教育に熱心な方で道徳の時間はいつも部落差別の勉強ばかりだった。今考えると日教組なんだがそれでも当時僕らは頼もしく思えて先生の言うことは間違いないと思っていた。

その年に各教室1台ずつテレビが導入された。校内放送はもちろん同和をテーマにしたテレビがあるとその時間に必ずクラス全員で見せられていたのだった。
そして学習発表会の時期、僕らのクラスは野麦峠をテーマにした劇をやることに決まった。富国強兵の陰で虐げられた人々を僕らが演じ、それを体育館で魅せるのではなくビデオに撮り校内放送で流すのだ。80年代初頭なのでまだビデオカメラも高かったのではないだろうか。栗川先生の私用だと思うのだが。

僕が演じたのは工場に身売りされる女工の、前日の夜に酒を飲みながら別れを惜しむ、感情込めて泣き叫ぶ父親の役だった。
迫真の演技だと言われ満足だった。この時がきっかけで僕は何かを表現する喜びを知ったのだと思う。友だちからも笑いが巻き起こった。

数年後、二十歳になる前かなった後だったか小学校の同窓会があった。その時はまだ何人かと交流があったのでそんなに懐かしいとは思わなかった。
久しぶりにあの野麦峠のビデオを見た。
僕の迫真の演技で笑いが再び起こると思ったが全く受けなかった。
逆に棒読みだった他のやつの演技にみんな爆笑していた。時代は多様化していて不条理さやいい加減さが受けるようにもなっていたことを僕はその時に気づいた。しらけ世代だった。

それから湾岸戦争が起きいろんな価値観が変化した。栗川先生の思想に僕はかなり感化されていたがいろいろあり過ぎて今ではその対極にあることだろう。
また時代が過ぎて栗川先生の名前をインターネットで検索した。僕が通っていた小学校とはそれほど離れていない小学校の校長先生に就任しそれから退任されていた。ご存命ならもう定年退職でいまだ箕面に住んでおられるのでしょうか。
栗川先生僕はオトナになりました。おそらくすれ違っても僕だとわからないでしょうね。
それでも野麦峠のことを思い出されたなら、あの大げさな父親役を演じた僕をどうか記憶の片隅にいさせてほしいです。

さよなら、栗川先生。